「ファー・イーストに住む君へ」

----いわゆる,連作エッセイ? って感じでしょうか?   top   
-1- 1996年,川崎医科大学 研究ニュース 留学報告-i
-2- 1996年,川崎医科大学 研究ニュース 留学報告-ii
-3- 1996年9月 川崎医科大学附属病院 病院広報 「海外の医療事情」
-4- 1997年 冬 川崎学園便り「すずかけ」随筆
-5- 1997年 春 川崎医科大学附属病院 病院広報 「一冊の本」
-7- 1997年 夏 川崎医科大学 同窓会報 助教授就任の挨拶に代えて
-8- 1997年 秋 川崎医科大学 父兄会報 助教授就任の挨拶に代えて
-9- 1997年 秋 川崎学園便り「すずかけ」随筆
-10-(含:-6-) 1999年 初春 川崎医科大学衛生学教室 同門会誌


ファー・イーストに住む君へ -10-(含:-6-)

 もう2年程前に君に宛てた手紙があって、その日は珍しく山陽路に颱風が直撃したものだから、結局、出さず終いになってしまったものだったんだ。僕が、昭和56年に卒業して2年後、血液内科に入局して、症例や研究で悪戦苦闘の後に、留学を機に離れてしまって、今のように、応用医学と分類されている衛生学教室にお世話になることになって、勿論、血液内科の同門会員なわけで(同じ建物の中ということで、いろいろと協力もしてもらってはいるのだが)、その同門会誌を作るという話が在って(結局は、これも颱風に飛ばされてしまったけれど)、それを機会に君に宛てたものだったんだよ。今、ちょっと読み返してみるから、暫く付きあってみてよね。


ファー・イーストに住む君へ-6- ・・・・もう一つの近況報告・・・・ 1997年5月

4歳半の一人息子・将巳は補助輪を精一杯廻しながら、彼にとっては全く初めてのこれ程の遠距離へのサイクリングに(結局その日はほぼ往復7〜8キロを彼は走ったのだった)それでもきっと心を踊らせているに違いなく、一ペダル毎に強く引き締められる唇と、両頬に宿ってくる5月にはまぶしすぎる程の光の粒子を集めたような紅潮は、その気持ちの高揚を表すばかりか、一心に前方を見据えた視線の力強さも加味した彼の歓喜が、懸命に風をも追い越そうとしている幼児の成長を物語っているようだ---ただ彼は1年半通った Geneva Day School,(Potomac, MD)で習った、というよりも慣れ始めていた英語を、今では Performa で遊ぶときの CD-ROM と向こうで買った子供向けの video(「となりのトトロ」の英語吹替え版もあるよ)ぐらいでしか、復習していないけれど---。その頃は、まだ結婚して間もない二人で Seattle での入国手続きでさえ不安に少し表情を硬くしながら通過したのちにようやく辿り着いた Minneapolis でも、伝えきれないもどかしさと伝わってこない苛立ちと、未知の慣習や表現に心の緊張を隠せないままに、それにもまして長い冬の寒気の厳しさに対しては、生まれたばかりの将巳が時間毎、日毎に新しい姿を見せてくれる事にしか目を向けずに過ごした1年を含めて、4年に及んだ異国の生活の中から Rockville, MD ではトール・ペインティングという新しい楽しみを見いだした妻・吏恵は、当時、Northern Verginia まで頻繁にレッスンに通っていた頃の作品を居間に飾っては、引っ越しの後片付けを確実にこなしながら、ふとその手を休める瞬間に、落ち着いて筆を奮える日々がやってくるのを心待ちにしている---とはいえ、越したばかりの新しい小さな団地では、そこもまた或る意味での異郷であり、気持ちのゆとりを生活に馴染ませるまでの時間は小さな衝突や憤りや疲労が積み重ねられたりもするのだが---。そして、子供の傍らで汗ばむTシャツを気にも掛けずに早足のジョッグに身を任せている僕は、周りに拡がる田畑の匂いに郷愁を呼び戻すまでもなく、その一瞬に脳裏を駆け巡る幼少時からの記憶の断片達を紡ぐ時間を惜しむかのように、そして、あるいはそれは学生時代のさぼり続けた授業の微かな記憶-----八幡先生が教授に昇任された年次の血液のブロックを階段教室の薄暗い上の方の片隅で聞いてもいなかった事や、5年の臨床実習が萬納寺先生の結婚の時で全スタッフが留守で気楽だった事----であったり、血液疾患治療に否応無く対峙していた頃への追憶----懐古となってしまった成分輸血の管理や記憶の彼方の抗生剤の名称やもう判断できない形態学や渋谷の雑踏しか覚えていない医科研時代や----でもなく、ましてやアメリカへの憧憬は数々の National Parks の大自然と野外の Jazz Concerts ばかりならば、今、家族を慈しみ仕事を愛することでゴールや折り返し点などではない未踏のスタートラインを探し続け得ることが、確実な自分の使命だとそれでも自らを信じている気持ちを抑えようもないままに、現在の幸福を噛みしめている。伝われ愛、そして明日へ。


 どうかな。これを記してからもう2年近くが過ぎてしまったんだって改めて感慨に襲われてしまったよ。

これを書いてから2年間、僕は何処を目指して何をしてきたんだろう。時間ばかりが速すぎるなら、距離感ばかりが悶え始めているなら、そして、危機感が否応もなく増殖を始めてしまっているならば、今、目の前の事共に精一杯、誠意一杯、対峙することしか、対応できることはないのかも知れない。怪しげな薄桃色の溶液と由来も知れないそれはウシの蛋白質とシューシューと喘ぎを繰り返す乳白色の孵卵器の中で、僕の細胞は、執拗に溶解し得ない線維状物質の谷間に心の動揺と核酸の消長と、それと同様の象徴としての細胞死を待ち続けるしかないのかも知れないし、あるいは、その為の受容体の活性化を嘱望しているというのが偽らざる心情の吐露であろうことも、実は自分で内心気付いているのである。YES という絶対の肯定を冠にした Progressive Rock の雄達が Close to the Edge と謳うことで若者を先導し煽動したあれはもう四半世紀前、「危機」とはまさに肯定でしかなかったのか。その頃の高校生の僕は、徒に伸びた髪と時代を象徴するばかりか嘲笑していたかのようなロンドンブーツの 10 cm の踵で、言葉通りに地に着く足も持っていず、きっとそれは今でも同じこと、擦り切れかけたスニーカーでは、一段飛ばしに実験ベンチと居室のデスクを往復する階段にも、踏み外しているそこここの段にこそ忘れてはならない重要な Key がちりばめられているはずなのだ。僕の細胞は線維状物質に抵抗するかのようにスプライス領域を覆い尽くすような見せ掛けの核酸も転写因子も誘導出来ず、細胞死を待っている状態を歓喜に近く実感していて、陥ることを恐れているくせに待っている状況だけは楽しんでいるという自虐の手前の状態で不安定に培養されながら、実は、それでも時間の停滞と、もしくは停止と、最終的な再生を待ち望んでもいることは、実は云ってはいけない。気付いてもいけない事柄なのである。歩き続ける事を大切と云う前に、行き着く先を教えておくれ。努力が酬われるなら、叶った望を現にしておくれ。歩き続けるその先には、登り続ける壁の向こうには、もしかして崩壊と残骸と静謐な廃虚しか見えてこないのかも知れないじゃないか。それでも行かなくてはならないのかい。知らない間に、いや、自分では思い付かない振りをしていただけかも知れないけれど、自分にとってこの上なく安楽な孵卵器を容易に用意してしまっていたことに、終に今や正面から玉砕に近い突撃を行動として起こさなければならなくなってきている。いつのまにかその孵卵器の中では、漆黒の闇に紛れて粘液質な異形の蛋白質や、情報伝達が絶えずフィードバックを忘れた形での一方通行のトップダウンの伝達経路をしか活性化せず、抑制的、あるいは調整的に働く酵素群を抑え込んでしまって働かなくさせてしまっているなら、我が身を活性化の一つの指標として、シグナルを出し、受容体を捜し、co-factor を模索し、況んや形成さえしなくてはならないのであろう。澱む所に生ずる歪みをそれでも擦り抜けて、沈殿の上層に可能性として拡がっている清廉な空間と躍動の発現と、叶うならば新生への道標を見いださなくてはならないのだろう。冷えきった冬の星達に空気の冷感が鋭利な針となって至宝の如く四方に伸びていく、そんな星座達が見守る中で、日々の活動への爆音を鳴らしたまえ。実験室の広大な窓越しにそれでも夜明けの曙光が張り詰めた大気を貫いて至高の情景を紡いでいるならば、神々の齎し給うた極限の陽光に照らされた頬にこそ、研究への情熱で火照りを浮かび上がらせるのだ。電脳のネットワークの先には CPU を飛び越えて君を待ち続ける、あるいは歓喜、あるいは友情、そして構築することの至福を授けてくれる女神も薔薇の微笑を携えて待っていることだろう。懐かしむな、振り向くな。しかし、性急に過ぎることなく、沈着たれ、確実たれ。心を純みやかに、澄みやかに、そして速やかに知識の受信機を張り巡らせ。事象はすべて複合であり単純である。疑うこと、信じること、そして、疑わないこと、信じないこと、それらすべてへの個々の判別と統合とで、道程が同定され、憧憬は象形となり、すべては消化され昇華するであろう。今まさに時機が危機を提唱することで沈滞への警鐘が打ち鳴らされているのだ。まず、その一歩を。そして、次は・・・・・・・。

そう、暗くなっていた気持ちも自己を鼓舞することで奮い立つならば、君への手紙もあながち独白だけに留まらず、僕に勇気を授けてくれそうだ。ありがとう、そして、今後ともヨロシク。僕はここにいるよ。ここから始めてみるよ。そして、伝われ愛、まだ見ぬ明日へ。